慶喜一念相応後

原文 書き下し文
慶喜一念相応後 (慶喜一念相応の後)

目次

  1. 相応とは?
  2. 何が相応するの?
  3. 相応した時とは?

相応とは?

慶喜一念相応後」は、
慶喜一念相応の後
と読みます。

相応」とは2つのものがピッタリあう、ということです。

よく「函蓋相応」と言われます。
函蓋」とは、身と蓋、蓋と身のことです。
ふたとみがあわないというのは、蓋が身より小さかったら入りませんし、蓋が身より大きかったらがたがたで、箱になりません。
ですから、蓋と身がピッタリ合わなければなりません。

また「身分不相応」と言われるときは、
身分不相応な服装しているね」、「身分不相応な車に乗ってるね」と言われます。
自分の立場と、服装や車が合わないということです。

また、「あの人とあの人は相応した夫婦だな」、「あの人とあの人は不相応な夫婦だな」とも言われます。

このように、2つのものが、ピッタリあうことを相応すると言います。

では、ここで「相応」するのは何と何なのでしょうか。

何が相応するの?

ここで相応するのは何と何かといいますと、
」と「」とが相応します。

」とは阿弥陀仏の本願です。
親鸞聖人は「願に相応する」と言われています。

」とは、阿弥陀仏が建てられた本願は、すべての人をどうみてとられておるかといいますと、「逆謗」とみておられます。
これが「真実の機」です。

阿弥陀仏は、すべての人を「逆謗」とみて、それを助けようと本願を建てられています。

いつまでたっても晴れて満足できないのは、阿弥陀仏の本願と相応しないからです。

相応しない」とはどういうことでしょうか。

逆謗」とは絶対助からないものということです。
それなのに私たちは、何とかしたら何とかなれると思っています。
だから、本願と合わないのです。

それが、金輪際助からない逆謗であった、と知らされた時、本願と相応します。
蓋と身がピッタリあいます。

ところが私たちは、何とかしたら何とかなれると自惚れているから、願に相応せず、いつまでたっても流転を重ねるのです。

相応」とは、蓋と身がピタッとあったことです。

本願でいうなら、逆謗の機と、それを助ける本願の法がピタッと一致した時。
これを願に相応したといわれます。

私は逆謗の屍と知らされた時、ピタッときます。
阿弥陀仏は、私たちを逆謗の屍と見てとられ、本願を建てられたので、ピタッと合うのです。

相応した時とは?

次に「慶喜一念相応後」の
一念」とは、阿弥陀仏の本願に相応して、絶対の幸福に救われる極めてはやい時を言います。
親鸞聖人は、

一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす。
(親鸞聖人『教行信証』)

とおっしゃっています。

信楽」とは、絶対の幸福のことですから、
信楽開発」は、絶対の幸福になったことです。

時尅」とは、時間と言っても同じです。
極促」とは、極速と同じで、極めて速いということですから、
阿弥陀仏の本願に相応して、絶対の幸福に救われる何億分の一秒よりも速い時を「一念」といいます。

その時、人間に生まれてよかったという大きな喜びがおきますから、親鸞聖人は「慶喜」とおっしゃっています。

慶喜一念相応後」の「」は、なった時ということで、次の行に続きます。

このように、阿弥陀仏の本願通りに、一念で阿弥陀仏の本願に救い摂られ、人間に生まれてよかったと生命の大歓喜の起きたことを「慶喜一念相応後」と親鸞聖人はおっしゃっています。

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